2016年8月9日火曜日

『シン・ゴジラ』にみる緊急事態対応(1):「国難」とともに復活するゴジラ

_




●『シン・ゴジラ』予告


●シン・ゴジラ公開特集 ZIP (07/29)



Yahooニュース 2016年8月9日 2時53分配信 田上嘉一  | 弁護士/BUSINESS LAWYERS編集長
http://bylines.news.yahoo.co.jp/tagamiyoshikazu/20160809-00060910/

『シン・ゴジラ』にみる緊急事態対応【ネタバレあり】

■大傑作映画『シン・ゴジラ』

 7月29日に映画、『シン・ゴジラ』が公開されました。
 事前に大々的なプロモーションも行っていなかったため、期待がそこまで大きくなかったのが実情だと思ったのですが、公開すると評価が一変。
 インターネットを中心に「『シン・ゴジラ』はすごい」という評判が広まり、この夏の話題をかっさらっています。

 もちろん話題の中心は、なんといっても12年ぶりに復活した、怪獣の代名詞とも言えるゴジラです。
 しかし、これに加えて、キャッチコピーの「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)」の通り、日本政府を中心にした総勢328名もの人たちの未知の巨大生物ゴジラに立ち向かう姿が感動するほど細部まで作りこまれ、限りなくリアルであるという点が、なんといっても本作品の大きな魅力でしょう。

 以下、ネタバレを含みますが、当初名前も付けられていない巨大不明生物が、アクアラインの海底トンネル付近に出現し、対応に苦慮する政府を嘲笑うかのように、蒲田に上陸。
 そのまま建造物をなぎ倒しながら品川方面に蛇行で進行していきます。
 すでにこの時点で羽田は全便欠航し、関係地域に人的物的含め甚大な被害が出ている状況です。

 これに対して政府は適切な対応を求められていますが、なにせ超想定外の事態なのでどう対応すべきかすぐには判断がつきません。
 この政府首脳が検討している様子、会議における議論の描写といった、ややもすると地味になってしまうシーンがこれでもかというほどてんこ盛り。
 しかも細部の作りこみが本当に精緻なのです。
 こういったところに、ここまで凝った作品はこれまでにありませんでした。

■災害対策基本法とは

 この後、官邸ではこの緊急事態に対応するための議論がなされるのですが、関連する法律は2つ出てきます。
 災害対策基本法自衛隊法です。

★:一つ目の災害対策基本法は、災害に対する国の基本的事項を定めた法律です。
 この法律は、国土並びに国民の生命、身体及び財産を災害から保護するため、防災に関し、国、地方公共団体及びその他の公共機関を通じて必要な体制を確立し、責任の所在を明確にするとともに、防災計画の作成、災害予防、災害応急対策、災害復旧及び防災に関する財政金融措置その他必要な災害対策の基本を定めることにより、総合的かつ計画的な防災行政の整備及び推進を図り、もって社会の秩序の維持と公共の福祉の確保に資することを目的としています(災害対策基本法1条)。

具体的な内容としては、以下の様なものを規定しています。
★.防災に関する責務の明確化
★.総合的防災行政の整備
★.計画的防災行政の整備
★.災害対策の推進
★.激甚災害に対処する財政援助等
★.災害緊急事態に対する措置
 このうち『シン・ゴジラ』で問題となったのは、もちろん 6.の「災害緊急事態に対する措置」でして、災害対策基本法第105条に基づく災害緊急事態の布告を行うかどうかで議論がされていました。

<<<<
★:災害対策基本法第105条(災害緊急事態の布告)
1: 非常災害が発生し、かつ、当該災害が国の経済及び公共の福祉に重大な影響を及ぼすべき異常かつ激甚なものである場合において、当該災害に係る災害応急対策を推進し、国の経済の秩序を維持し、その他当該災害に係る重要な課題に対応するため特別の必要があると認めるときは、内閣総理大臣は、閣議にかけて、関係地域の全部又は一部について災害緊急事態の布告を発することができる。
2: 前項の布告には、その区域、布告を必要とする事態の概要及び布告の効力を発する日時を明示しなければならない。
>>>>

 この緊急事態の布告を行ったあとに、どういった措置をとることができるかというと、同法の109条が規定しています。

<<<<<
★:災害対策基本法第109条(緊急措置)
1: 災害緊急事態に際し国の経済の秩序を維持し、及び公共の福祉を確保するため緊急の必要がある場合において、国会が閉会中又は衆議院が解散中であり、かつ、臨時会の召集を決定し、又は参議院の緊急集会を求めてその措置をまついとまがないときは、内閣は、次の各号に掲げる事項について必要な措置をとるため、政令を制定することができる。
(1). その供給が特に不足している生活必需物資の配給又は譲渡若しくは引渡しの制限若しくは禁止
(2). 災害応急対策若しくは災害復旧又は国民生活の安定のため必要な物の価格又は役務その他の給付の対価の最高額の決定
(3). 金銭債務の支払(賃金、災害補償の給付金その他の労働関係に基づく金銭債務の支払及びその支払のためにする銀行その他の金融機関の預金等の支払を除く。)の延期及び権利の保存期間の延長
>>>>>

 つまり、生活必需物資の分配や物流を制限することができます。
 さらには物資の価格の統制を行うこともできますし、債務の支払延期、延長などモラトリアムも発令することができます。
 このような緊急事態に陥った場合には、物資などが行き届かないことを想定して、国家が介入して必要物資の管理を行うことができるわけです。

 ゴジラに破壊されたのは首都東京だということを考えれば、この経済統制は不可欠でしょう。
 あの破壊っぷりからみて東京含めた日本の経済は壊滅状態にあると思われますし、物流網が復帰するのに相当の時間も要することでしょう。
 そうした観点から見て、大河内内閣が、即座に緊急災害事態の布告を出したことは英断だといえるでしょう。

■ゴジラが出現した場合、自衛隊は出動できるのか

 さて、ゴジラは災害ともいえますが、生物でもあります。
 竹野内豊さん演じる赤坂内閣総理大臣補佐官(国家安全保障担当)がいうように、「地震や台風などの自然災害とは異なり、生物である以上駆除できる」わけです。

 緊急災害事態に際して物価統制などの経済統制を行うことを可能にするのが災害対策基本法であることは説明しました。
 他方で、ゴジラを駆除できるとすれば日本の自衛隊
 そして法治国家において政府の機関を動かす以上は法律に基づく必要があります。
 自衛隊を出動させるためには、自衛隊法の根拠が必要なのです。

 これまでのゴジラシリーズでは、ゴジラが出現すると、特に議論がなされることもなく、当たり前のように直ちに自衛隊が出動していました。
 しかし、今回の『シン・ゴジラ』は違います。
 どこまでも自衛隊の法的根拠をめぐって議論が交わされており、これがあくまでも細部に拘りまくっていて、このようにとことんリアルさを追求しているところが、
この映画の醍醐味の一つといえるでしょう。

 まず、最初に政府がなかなか自衛隊を出動させないため、光石研さん演じる小塚東京知事の方から、自衛隊の治安出動の要請が出ます。

これは自衛隊法の81条1項に根拠があります。

>>>>>
自衛隊法第81条(要請による治安出動)
1: 都道府県知事は、治安維持上重大な事態につきやむを得ない必要があると認める場合には、当該都道府県の都道府県公安委員会と協議の上、内閣総理大臣に対し、部隊等の出動を要請することができる。
<<<<<

 都道府県知事からの要請にかぎらず、
 治安出動は、内閣総理大臣の命令によっても行うことができます(自衛隊法78条1項)。


 もっとも、治安出動とは一般の警察力をもっては治安を維持することができないと認められる場合における自衛隊の出動であるため、武器の使用については、警察官職務執行法と海上保安庁法を準用することになります。
 そのため、基本的には正当防衛と緊急避難でしか使用できません。

 これに対して、
 防衛出動は、
★.日本に対する外部からの武力攻撃が発生した事態
★.または武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態
に際して、日本を防衛するため必要があると認める場合に、
 内閣総理大臣の命令により、自衛隊の一部または全部が出動するものです(自衛隊法76条)。

>>>>
自衛隊法第76条(防衛出動)
1:内閣総理大臣は、次に掲げる事態に際して、我が国を防衛するため必要があると認める場合には、自衛隊の全部又は一部の出動を命ずることができる。
 この場合においては、武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律(平成15年法律第79号)第9条の定めるところにより、
 国会の承認を得なければならない。
(1) . 我が国に対する外部からの武力攻撃が発生した事態又は我が国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至つた事態
(2). 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態
<<<<<

 この自衛隊法76条1項(2)号の規定が、いわゆる「存立危機事態」というやつで、この条項によって、日本そのものに対して武力攻撃がなされていなくても、「我が国と密接な関係にある他国に対する」武力攻撃があって、日本の存立が危うくなる場合には、自衛隊の防衛出動が認められることとなりました。
 この自衛隊法を含む11本の法改正がいわゆる「安保法制改正」であって、昨年の夏には国会前のデモをはじめ、議論が盛り上がったのは記憶に新しいところです。

★.今回の『シン・ゴジラ』では、まさにこの防衛出動を行うことができるかどうかという点で、議論がなされていました。
 理由は作品中からは明らかではありませんでしたが、最終的に自衛隊の武器無制限使用を許可していたところをみると、やはり治安出動では武器の使用制限に不安を感じたのではないかと推察されます。

 最終的に、大杉漣さん演じる大河内総理は、戦後初の防衛出動を行うことを決断します。
 これによって、自衛隊は出動することとなり、木更津駐屯地からAH-1S、立川駐屯地からAH-64DとOH-1が出撃していきます。
 そして、さらには、10式戦車、99式155mm自走砲、機動戦闘車、三沢基地からF-2戦闘機、富士駐屯地からM270 MLRSなどが出撃していきますが。。。ここから先は本編をご覧ください。

 ところで、作品中では、
 「戦後初の防衛出動」として、防衛出動がこれまで実例がないことに言及されていますが、実は
 治安出動についても今まで実例はありません。
 過去には、安保闘争、1960年代の学生運動、労働争議、新宿騒乱、あさま山荘事件等への対応やオウム真理教事件における教団への強制捜査において治安出動が検討されたことはあり、治安出動の請願が地方議会で可決されたことまであるそうです。
 しかし、結果的に治安出動が発令されたことは一度もありませんでした。

■ゴジラは自然災害なのか? ゴジラと自衛隊の災害派遣

 さらにもう一つ。
 作品中で、竹野内豊さん演じる赤坂内閣総理大臣補佐官が
 「防衛出動は、先行する武力攻撃の主体を国またはそれに準じるものに限定しており、
 ゴジラはこれに該当しないため、超法規的措置として実行するほかない
として、柄本明さん演じる東官房長官が「ここは苦しいところですが、総理、ご決断を」として詰め寄っています。

 確かに、ゴジラは人間や国ではありませんから、ゴジラに対する防衛出動は難しいのかもしれません。

 じゃあ、実際にゴジラが出た場合はどうするのか?

 これについては、石破茂元防衛相が次のように語っています。

 「ゴジラの映画があるが、ゴジラでもモスラでも何でもいいのだが、あのときに自衛隊が出ますよね。
 一体、何なんだこの法的根拠はという議論があまりされない。
 映画でも防衛相が何かを決定するとか、首相が何かを決定するとかのシーンはないわけだ。
 ただ、ゴジラがやってきたということになればこれは普通は災害派遣なのでしょうね。
 命令による災害派遣か要請による災害派遣かは別にしてですよ、これは災害派遣でしょう。
 これは天変地異の類ですから。
 モスラでもだいたい同様であろうかなと思いますが、UFO襲来という話になるとこれは災害派遣なのかねということになるのだろう。
 領空侵犯なのかというと、あれが外国の航空機かということになる。
 外国というカテゴリーにはまず入らないでしょうね。」
◆:出典:産経新聞2007年12月20日

 確かに、ゴジラといえど地球上の生物であることには違いないので、災害派遣ということになるのでしょう。
 この場合、自衛隊法83条が根拠となります。

>>>>>
自衛隊法第83条(災害派遣)
1: 都道府県知事その他政令で定める者は、天災地変その他の災害に際して、人命又は財産の保護のため必要があると認める場合には、部隊等の派遣を防衛大臣又はその指定する者に要請することができる。
2:  防衛大臣又はその指定する者は、前項の要請があり、事態やむを得ないと認める場合には、部隊等を救援のため派遣することができる。
 ただし、天災地変その他の災害に際し、その事態に照らし特に緊急を要し、前項の要請を待ついとまがないと認められるときは、同項の要請を待たないで、部隊等を派遣することができる。
3:  庁舎、営舎その他の防衛省の施設又はこれらの近傍に火災その他の災害が発生した場合においては、部隊等の長は、部隊等を派遣することができる。
<<<<<

 この場合、ゴジラに対して武器使用を認めることができるのか?
という疑問がわくのが普通ですよね。

 ところが、
 1960年代には、有害鳥獣駆除として航空自衛隊のF-86戦闘機による機銃掃射や、
 陸上自衛隊の12.7mm重機関銃M2、7.62mm小銃M1などによる実弾射撃が行われていた、
んだそうです。
 今や希少海獣として保護の対象にあるトドだが、昭和30-40年代には、北海道や三陸沿岸では、彼らの”悪行”に困り果てた漁民らが自衛隊に泣きつき、機関銃で退治していたんだとか。
 昭和34年3月26日、航空自衛隊の三沢第三飛行隊(当時)のF86F戦闘機が地元の海岸に出動、トドに対して機銃掃射を行っていますし、
 また、昭和43年1月28-29日には、北海道北部の羽幌町で、陸自第一特科団が12.7ミリ四連装対空機関銃「ミートチョッパー」を数基海岸に並べて射撃し、トドを仕留めたそうです
(「丸」04年7月号 『ミリタリートリビア』集選より)。

 このように考えると、今回も災害派遣でよかったのかもしれません。

■『シン・ゴジラ』に政治的な意図はない(と思う

 なお、『シン・ゴジラ』に対して、一部サヨクの皆様が「憲法改正に誘導するプロパガンダだー」とお怒りのようですが、筆者はむしろ、こういった緊急事態に際してどのように憲法と現行法の下で対応するのかという、あくまで実務的な政府・官僚的なリアルさしか伝わってきませんでした。
 未曾有の危機に際しては、実務家たちは現行法制度の欠陥をあげつらったりしていません。
 あくまで、自分たちができることを粛々とやっていたという印象で、良くも悪くも日本の現場力がよく出ていた作品だと思います。
 本当に傑作でした。
 大変感動しました。
 ありがとうございました。

田上嘉一:弁護士/BUSINESS LAWYERS編集長
弁護士。弁護士ドットコム ゼネラル・マネージャー。企業法務ポータルサイト「BUSINESS LAWYERS」編集長。早稲田大学法学部卒、ロンドン大学クィーン・メアリー校修士課程修了。大手渉外法律事務所にてM&Aやファイナンスに従事し、ロンドン大学で Law in Computer and Communications の修士号取得。その後、IT企業にて法務・新規事業立ち上げなどを経て、現職。TOKYO MX「モーニングCROSS」、JFN 「Day by Day」などメディア出演多数。最新のITに関する法律問題から、法哲学・法制史、果てはアニメの話題まで幅広く取り上げてまいります。
Gotama7
official site
BUSINESS LAWYERS



現代ビジネス 2016年08月13日(土) 辻田真佐憲(近現代史研究者)
http://gendai.ismedia.jp/articles/-/49434

 『シン・ゴジラ』に覚えた“違和感”の正体
〜繰り返し発露する日本人の「儚い願望」


●日本の政治家や官僚は非常事態でも都合よく「覚醒」しない…(『シン・ゴジラ』予告より)

■バブル時代とゴジラ映画

 経済大国日本は、21世紀にその財力で赤字国の領土を買いあさり、22世紀に世界最大の面積を誇る大国になり、23世紀に唯一の超大国として世界に君臨するにいたる。
 この事態を憂慮した未来人の一部は、タイムマシンを使って20世紀末の日本に怪獣を送り込み、日本を徹底的に破壊して、歴史を改変しようと試みる――。
 これは、1991年12月に公開された『ゴジラ対キングギドラ』(大森一樹監督)のストーリーである。
 衰退する一方の現代日本では、このストーリーはいまやまったく現実味のないものになってしまった。
 しかし、この脚本が書かれたころの日本では、必ずしもそうではなかった。
 当時の日本はバブル景気の真っ直中であり、世界中の企業を買いあさるなど、まさに我が世の春を謳歌していた。
 いわゆる「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だ。
 それゆえ、日本がこのまま世界を支配するという荒唐無稽なストーリーにも、一定の説得力があったのである。

 ただの怪獣映画と侮ってはならない。
 娯楽映画であったとしても、その内容や消費のされ方には、時代や政治の動きが反映される。
 ましてゴジラ映画は、太平洋戦争や水爆実験など、時に現実世界のできごとと密接に関係してきたのだから、なおさらそうである。

■失われた20余年と『シン・ゴジラ』

 ひるがえって、今年7月末に公開された新作(日本製作では約12年ぶり)の『シン・ゴジラ』(庵野秀明総監督)はどうだろうか。
 『シン・ゴジラ』では、ゴジラはこの21世紀のうらぶれた日本にやってくる。
 決断力に欠ける政治家や、省庁間の縦割りにこだわる官僚たちは当初、この非常事態にうまく対処できず、いたずらに被害を拡大させてしまう。

 ところが、日本存亡の危機がせまるに及んで、政治家や官僚たちは「覚醒」する。眼の色や表情は明らかに変化し、従来のしがらみを捨てて結束し、ゴジラと対するようになるのだ。
 「現場」の公務員や民間人たちも、身命をなげうってこの動きに呼応する。
 かくて挙国一致した日本は、東京に核ミサイルを打ち込んでゴジラを抹殺しようとする米国の動きを牽制しつつ、日本の科学技術力を総動員して、ついにゴジラの動きを自力で止めることに成功するのである。

 なんとも劇的なストーリーであるが、実はこの展開はさほど珍しいものではない。
 日本はたしかに衰退している。
 だが、われわれには秘められた力がある。
 立派な指導者さえ出てくれば、この国はまだまだやれる。
 対米従属だって打破できるし、科学技術力を世界に見せつけることだってできる
――いわゆる「失われた20余年」の日本人は、こうしたストーリーを愛好してきた。

 たとえば、かわぐちかいじの漫画『沈黙の艦隊』(1988〜1996年)では、日本の政治家や官僚たちが、非常時に出くわしてたくましく成長し、団結する姿が描き出されている。
 対米従属を打破し、科学技術の底力を顕示するところも同じだ。
 時代背景が異なるものの、荒巻義雄の仮想戦記小説『紺碧の艦隊』シリーズ(1990〜2000年)もまた、日本の政治家や官僚(軍人)たちが著しい指導力や先見の明を発揮して、主体的かつ独創的な政治や外交を展開する話となっている。
 『沈黙の艦隊』も『紺碧の艦隊』シリーズも、一世を風靡した人気コンテンツだ。
 「失われた20余年」の日本人は、以上のようなストーリーを好意的に受け入れてきたわけである。『シン・ゴジラ』もまたそのひとつということができよう。

■政治家と官僚の「覚醒」にリアリティはない

 こうした政治家と官僚の「覚醒」ストーリーは、現実の日本の不能ぶりをむしろ露わにしている。
 実際のところ、日本の政治家や官僚は(東日本大震災のような)非常事態にあってもみながみな都合よく「覚醒」するわけではない。
 不必要な決断などで、かえって混乱をまねくこともしばしばだ。
 また対米従属は相変わらずで、科学技術はどんどん世界に追い抜かされつつある。

 その一方「現場」は、ブラック企業、非正規雇用、様々なハラスメントなどで疲弊している。
 ひとびとは格差やイデオロギーで分断され、とても一致団結できるような状態ではない。
 グローバル化が進んだ現代では、ゴジラのごときものが襲ってきても、富裕層などはさっさと海外に逃げてしまうだろう。
 このなかでも、政治家や官僚の問題は宿痾のように根深い。
 というのも、直近では最大の国難ともいうべきアジア太平洋戦争(1931〜1945年)においてさえ、彼らは決して目覚めもしなければ、一致団結もしなかったからである。

 よく知られるように、戦時下に本来ならば協力すべき陸海軍は、常にいがみ合い、情報を共有せず、資源を奪い合った。
 それだけではない。同じ陸軍のなかでも、陸軍省と参謀本部が対立し、参謀本部のなかでも作戦部と情報部が対立した。
 もちろん、海軍のなかにも同じような対立構造があった。
 陸海軍は、まさに四分五裂の状態だった。
 一例をあげれば、1944年10月、陸海軍は、大本営発表に「陸海軍」と書くか「海陸軍」と書くか、その順序をめぐって5時間近くも揉め続けたといわれる。
 米軍が日本本土に迫る危機的な状態で片言隻句にこだわっていたのである。
 こうしたつまらない対立の事例は枚挙にいとまがない。

 つまり、この国にあって、政治家や官僚は非常時にあっても都合よく「覚醒」しないし、一致団結もしない。
 これは現在だけではなく歴史的にもそうである。
 だからこそ、『沈黙の艦隊』や『紺碧の艦隊』のような虚構の作品が受け入れられ続けてきたのだ。

 『シン・ゴジラ』では、政治家や官僚の肩書、服装、しゃべり方などがかなりリアルだっただけに、一層その「覚醒」の異様さが浮き立って見える。
 それは、現実社会における不能ぶりとのギャップを想起させないではおかず、痛ましくもあった。

 劇中最後の、核ミサイル攻撃の回避においてもそうだ。
 かつて帝国日本は、なかなか終戦の決断をできず、みだりに戦争を長引かせ、ふたつの原爆投下を招くにいたった。
 これに対し本作では、「覚醒」した政治家や官僚と、「現場」の公務員や民間人によって核ミサイル攻撃が防がれる。

 なんという「美しい」物語だろう。
 ただしそれは、われわれがいまだかつて一度も手にしなかった歴史でもあるのである。

■「現実対虚構」ではなく「願望対虚構」

 劇場などに貼りだされている『シン・ゴジラ』のポスターには、「現実(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」という印象的なキャッチコピーが書かれている。
 実際には、ゴジラのような生命体が日本を襲うことなどありえない。
 たしかにこれは、まったくの虚構だ。
 だが、それと同じくらい、挙国一致し世界に実力を見せつける日本というのもまた虚構なのではないか。
 願望の発露といってもよい。

 それゆえ、本作の内容を正確に反映するならば、「願望(ニッポン)対虚構(ゴジラ)。」
 とでもいうべきであろう。

 『シン・ゴジラ』は、昨今の映画にありがちな無駄なシーンを削りに削ったとも評価される。
 たしかに、定番のお涙頂戴シーンや恋愛描写などはなく、たいへんテンポがよい。
 本作の秀逸さは散々語られているので改めていうまでもあるまい。
 ただ、これはまた、われわれが「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」というストーリーを「無駄」と考えず、あまりにも自然に、快楽として受容しているということでもある。

 「失われた20余年」にも似たようなストーリーはあまりにも繰り返されてきた。
 「決断できる政治家」に対する待望は久しい。
 「日本の底力」や「日本の実力」を謳歌するコンテンツも増え続けるばかりである。
 だからこそ、野暮なことを承知のうえで、あえていわなければならない。
 知らず知らずのうちに、われわれはこのようなストーリーに影響されてはいないだろうか、と。

 もし、『シン・ゴジラ』を観て、「立派な指導者が出てくれば、日本はまだまだやれる」と本当に思ったとすれば、そんなものは虚構のなかにとどめておかなければならない。
 「失われた20余年」に繰り返されてきたこうした願望の発露は、その実現可能性ではなく、その徹底的な不可能性を示していると考えるべきだ。

 劇中に描かれる美しき挙国一致の「ニッポン」は、極彩色のキノコである。
 鑑賞する分には美しいかもしれないが、それを実際に口にすればひとは死ぬ。
 ありもしない「底力」とやらを信じて、身の丈に合わない行動を起こし、かえって損害を被るのはもうやめたいものである。

 まもなく今年も8月15日の終戦記念日がおとずれる。

 本当の非常時における政治家や官僚の言動は、そのなかにたくさん事例がある。
 『シン・ゴジラ』は名作ゆえに、様々な影響をわれわれに残すだろうが、その中和のためにも、実際の戦史について調べてみるのも悪くないのではないだろうか。

辻田 真佐憲(つじた・まさのり)
1984年大阪府生まれ。文筆家、近現代史研究者。慶應義塾大学文学部卒業。同大学大学院文学研究科を経て、現在、政治と文化・娯楽の関係を中心に執筆活動を行う。近刊『大本営発表』(幻冬舎新書)、そのほか単著に『たのしいプロパガンダ』(イースト新書Q)、『ふしぎな君が代』(幻冬舎新書)、『日本の軍歌 国民的音楽の歴史』(幻冬舎新書)、『愛国とレコード 幻の大名古屋軍歌とアサヒ蓄音器商会』(えにし書房)などがある。監修CDに『日本の軍歌アーカイブス』(ビクターエンタテインメント)、『出征兵士を送る歌 これが軍歌だ!』(キングレコード)、『みんな輪になれ 軍国音頭の世界』(ぐらもくらぶ)などがある。



ダイヤモンドオンライン 2016年8月19日 秋山謙一郎 [フリージャーナリスト]
http://diamond.jp/articles/-/99300

もしゴジラが上陸したら?
現役自衛官たちが真剣に考えてみた


●陸・海・空の各部隊は、どのようにゴジラをやっつけるのか!?もちろん架空の話ではあるが、自衛官たちは真剣に対ゴジラ戦について語ってくれた ©2016 TOHO CO.,LTD.

 もしゴジラが本当に東京湾から首都・東京に上陸して大暴れしたならば、わが国自衛隊はどう対処するのだろうか――。
 今、公開中の映画「シン・ゴジラ」(東宝系)は警察官、消防士、自衛官たちの職業本能をかき立てるものだという。
 ゴジラがわが国にやってきた場合の自衛隊のオペレーションとはいかなるものか。
 防衛省、陸海空の各幕僚監部、そして自衛隊の作戦をつかさどる統合幕僚監部に話を聞いてみた。
 (取材・文/フリージャーナリスト 秋山謙一郎)

■もしゴジラが東京を襲ったら
陸・海・空のどの部隊が最強か?

はたして自衛隊はゴジラに勝てるのか。
 実は、この問い自体が「防衛機密スレスレ」(元統合幕僚監部勤務・1佐)だ。
 というのも、国家の防衛はセンシティブな要素を孕んでいる。
 もし防衛省・自衛隊が、任務としてこうした検討を行っていたとなれば、われわれシロウトからは想像もつかない、大きな問題へと波及する恐れもあるのだ。
 なので、取材は困難を極めた。

 まず防衛省に真っ正面から「自衛隊vsゴジラ」について聞いてみたところ、「架空の事柄について回答することは差し控えたい」と、にべもない返答がかえってきた。
 昨年から幾度となく食い下がったが、オフレコといえども、とうとう回答をもらえることはなかった。

 だが本当に防衛省が「対ゴジラ戦」をまったく想定していないかといえば、そうではない。
 防衛省本省に勤務する事務官のひとりはこう明かす。
 「防衛大学校や幹部候補生学校では、『もしゴジラが東京に上陸して、サンシャイン60をなぎ倒そうとした場合』にどう対処するか、あくまでも雑談の一環としてではありますが、語られていると聞いたことがあります」
 さらに、こんな証言もある。53期生として防衛大学校国際関係学部に学んだ陸上の幹部自衛官は、「対ゴジラ戦について防大の授業で話題に出たことがある」と話し、防衛省や自衛隊による対ゴジラ戦の研究を暗に認めた。
 一般大学卒の幹部自衛官も、「幹部候補生学校の授業で話題に上った」という。
 こうしたいくつもの証言を総合すると、防衛省・自衛隊による「対ゴジラ戦」検討は、もはや“公然の秘密”として行われているものなのかもしれない。

 海上幕僚監部に聞いても、担当者は「オペレーションに関する事柄なので統幕(統合幕僚監部)に聞いてほしい」とその回答を頑なに拒むばかり。
 しかし、「もし、対ゴジラ戦が繰り広げられた場合、陸・海・空の各自衛隊ではどこがいちばん強いのか」と聞くと、即座に、「あくまでも自衛隊とは無関係の個人として発言します」と前置きし、語気を荒げて次のように語った。

 「うち(海上自衛隊)がいちばん強いに決まっているではないですか?
 もし東京湾にゴジラが現れたならば、3時間もいただければ殲滅も駆除も可能です。
 最初にP-3C(哨戒任務を行う航空機)による偵察、
 それから潜水艦による魚雷攻撃、
 衛艦による艦砲射撃を行い、
 世界最強の特殊部隊『特別警備隊(SBU:Special Boarding Unit)』が出動すれば、もう大丈夫です!」

 しかしゴジラが放射能を含む火炎を口から放射した場合、いくら精鋭で知られる護衛艦隊といえども殲滅されるのではないか。
 これについて艦艇装備を専門とする3等海佐もまた、「個人として」と前置きし次のように回答した。
 ゴジラの放射火炎は10万度とも50万度ともいわれています。
 でも、わが海自の艦艇はそれにも十分耐えられます。
 その詳細は防衛機密ということでご理解いただきたい」

■航空自衛隊は煙幕でゴジラをかく乱!
陸上自衛隊は3部隊統率の主導権獲得に自信

 同様の質問を航空幕僚監部にぶつけてみた。
 こちらも海自同様、「作戦に関することなので統幕に」と繰り返す。
 回答を引き出すべく非礼を承知で、
 「さすがにゴジラには空自さんでも勝てないですよね?
 海自さんは勝てると仰ってましたが」
と挑発してみた。
 すると、担当者は、
 「私人としてお話しいたしますが、対ゴジラ戦ではうちがいちばん強いです
とし、次のように語った。
  「陸・海自と違い、空自は機動性が高いのです。
 戦闘機でゴジラが情報を得る“目と耳”に煙幕を張るなどして行動に制限を設けます。
 後は政府の方針に従って…ということで。
 詳細は私の立場では個人といえどもお話しできません。
 オペレーションに関することなので統幕にお願いいたします」


●「ウチが一番強い!」と胸を張る海自と空自。
 一方、陸自も控え目ながら自信たっぷりな返事をくれた。
 もっとも、オペレーションは統合運用の時代。
 実際には、3部隊が力を合わせてゴジラと対戦することになるそうだ ©2016 TOHO CO.,LTD.

 対ゴジラ戦では「うちがいちばん強い」と胸を張る海・空の各自衛隊だが、防衛最後の要といわれる陸上自衛隊ではどうか。
 陸上幕僚監部はこう話す。
 「統合運用の時代、オペレーションは陸海空統合で行われます。
 なので統幕に聞いていただきたい。
 ただし、もし対ゴジラ戦となれば、そのオペレーションではうちがイニシアティブを取らせていただくことになる筈です。
 それだけは申しておきます」

 陸海空の各自衛隊のなかでもっとも控え目ながらも、自信たっぷりな回答をした陸自の回答者に促され、統合幕僚監部を直撃した。
  「えっ?ゴジラ対自衛隊!?それは…。
 架空の事案なのでお話しできません」

 統合幕僚監部の担当者は笑いをかみ殺しつつ、記者の
 「対ゴジラ戦における自衛隊のオペレーションをお教え願いたい」
という質問にこう回答した。
 だが記者が執拗に食い下がったためか、「個人としてなら何時間でもお付き合いいたします」とにこやかに応対、こう語った。

  「そもそもゴジラとは水爆実験で生まれたものと聞いています。
 なので殲滅、駆除を問わず、何が有用なのかがわかりません。
 そこからのスタートですね…」

 しかし何が有用かわからないといえども、もしゴジラが東京湾に現れたなら、これへの対処をわが国自衛隊は迫られる。
 統幕勤務経験のある1佐は、
 「国民の皆さまが、不明巨大生物の脅威に怯えないよう、広報活動の一環として私見を語らせていただく」
として、そのオペレーションの一端をついに明かした。

■自衛隊1佐がこっそり明かす
ゴジラに鳥獣保護法準用も検討!?

  「ゴジラがわが国の領海・領空に現れた段階で、防衛省情報本部は情報をキャッチしている筈です。
 内閣でも掴んでいるでしょう。
 あるいは米軍からも情報提供はあるはずです。
 そこでゴジラの属性について分析、検討がなされるはずです。
 これは内閣や他省庁でも行いますが、防衛省・自衛隊としても当然行います」

 この段階ではゴジラが
(1):どこの国にも組織にも属さない単なる巨大生物、
(2):諸外国が軍事行動やテロ目的で放った巨大生物、
(3):ISのようなテロ組織がテロを目的として放った巨大生物
――のどれに当たるかで、その対応も変わってくるという。

  「軍時行動やテロ目的で放った巨大生物なら、防衛出動の可能性も出てきます。
 しかしどこの国やテロ組織にも属さないそれならば、動物愛護法の観点からの問題も含めての対応も考えなければなりません。
 この場合は、わが国の領海・領空内に侵入した段階で、その外に追い出すことを目的とします」

 ゴジラが諸外国やテロ組織に属さない、単なる「巨大生物」「怪獣」の場合、たとえば東京湾にやってきても、わが国国民に危害を加えないようであれば、これは「駆除」の方向で対応するしかないというわけだ。
 1佐が続けて語る。

 「いかにして、わが国領土に侵入させないかがポイントです。
 領海内で泳ぐ、もしくは歩いている段階で、陸海空の各自衛隊の航空機を用いて領海外へと誘導、ゴジラを駆除します。
 捕獲は現実的には難しいでしょう」

 巨大生物、怪獣であるゴジラといえども、諸外国が軍時行動やテロ目的で放ったものでなければ、いきなり殺処分するというわけにはいかないという。
 そこには法の壁が立ちはだかる。

  「クマやイノシシのように、ゴジラは『有害鳥獣』に指定されていません。
 なので現状では捕獲はおろか、殺処分などもってのほかです。
 ただし、ゴジラがわが国領海内に入り放射火炎したならば、わが国国民に危害を加える恐れありとして、『鳥獣の保護及び管理並びに狩猟の適正化に関する法律(以下、鳥獣保護法)』を準用して対応することになるでしょう」(前出・1佐)

 とはいえ、この鳥獣保護法が準用された場合でも、自衛隊が対応するまでにはクリアすべき課題がある。
  「クマ被害の際、猟友会という狩猟免許を持った人たちが地方自治体から委託を受けて出動します。
 これは自衛隊や警察といえども、狩猟免許を持っていないという理由からです。
 ゴジラが現れた場合、たとえ形式的にでも、まず猟友会で対応できるのかどうかは議論されるでしょう。
 猟友会で対応できない、警察でも厳しいという話になって、ようやく自衛隊の出番という形が取られることになると私は見ています」(同)

 こうして法的な“お墨付き”が出てようやく、自衛隊によるオペレーションが展開される。
 問答無用で暴れ回るゴジラを目の前にして、そんなことをやっているヒマが本当にあるのか、一抹の不安を覚える話ではある。
 もっとも、もしゴジラが諸外国やテロ組織が「軍時行動」や「テロ目的」で放った怪獣ならば、わが国領海内に侵入した段階で即、自衛隊が対応可能だという。


●あのゴジラが本当に日本に上陸したら…?本物の自衛官たちが語る「対ゴジラ戦」のオペレーションとは――
©2016 TOHO CO.,LTD.

■まずはゴジラによじ登って作戦開始
上陸したら陸自主体の作戦展開に

 ゴジラが「諸外国やテロ組織が放った巨大生物・怪獣」であるほうが、自衛隊の素早い対応が期待できるのだが、この場合もハードルは高い。
  「自衛隊法第76条の『防衛出動』です。
 ただし、これを行う場合には、内閣総理大臣は国会で承認を得なければなりません
 もし国会で承認を得られない場合は、ただひたすらゴジラの行動をウォッチするだけです。
 自発的にゴジラが領海外に出て行ってくれれば、それで問題ありません。
 しかし領海から領土、とりわけ首都・東京に上陸されても、根拠なしに自衛隊は動けないのです」(統幕勤務経験のある自衛隊1佐)

 防衛出動について国会で承認を得られて初めて、自衛隊は行動を起こせる。
 「まず内閣、米軍などの情報、防衛省情報本部が得た情報を基にゴジラの行動を予測。領海内でその動きを封じ込めなければなりません」(同)。

 ここで登場するのが海自の精鋭・特別警備隊(SBU)と陸自の西部方面普通科連隊(西普連)だ。
 まず海自特別警備隊が先兵となってゴムボートで接近、ゴジラによじ登り暗幕をはるなどして「目と耳」を塞ぐ。
 それを西普連が、がっちりサポートする。
  「特別警備隊と西普連が、ゴジラによじ登れば、今度は陸自・化学科部隊による化学兵器を用います。
 特別警備隊員が経口の形でゴジラに投入します。
 詳細は防衛機密ですが、ゴジラがそのエネルギーとする核を封じ込めるそれ、ということでご理解いただいていいでしょう」(同)

 この間、空自の戦闘機ではゴジラの目を中心に機銃射撃、陸自第一空挺団では空からパラシュート降下、さらなる攻撃を加える。
 海自護衛艦隊では防衛省技術本部が研究・開発したという「特殊物質」を海中に散布、ゴジラの動きを鈍らせるという。
 粘着性の高い化学物質を用いてゴジラをがんじがらめにするのだ。

  「わが国領海に入った段階では、海自と空自、そして陸自の精鋭部隊を軸としたオペレーションです。
 しかしこれをゴジラがかわし、首都・東京までやって来たとなれば陸自主体のオペレーションを展開しなければなりません」(同)

 まず東京都、神奈川県、千葉県といった首都圏の各地方自治体に、ゴジラ上陸に備え「防御施設構築」を行い、水際で打ち破るべく関東周辺の部隊がここに派遣される。
 その主力は陸自第1師団(東京都練馬区)になるという。

■ゴジラ駆除の要点は
核エネルギーの封じ込め

  「自衛隊法では、防衛大臣が内閣総理大臣の承認を得た上で、陣地など防御施設を構築できます。
 とはいえいくら国家火急の事案といえども、自衛隊がいきなり民間の土地家屋を接収して…というわけにはいきません。
 できるだけ、その民間私有地の持ち主を探し出し賃貸借契約を結び、それから防御施設構築を行うことになります」(関東地方の陸上自衛隊駐屯地賠償保障専門官)


●大ヒット上映中の「シン・ゴジラ」。
 戦闘の要は、ゴジラの持つ「核エネルギー」だという点で、自衛官たちの意見は一致した ©2016 TOHO CO.,LTD.

 もっとも、この水際で集められた部隊はあくまでも「オペレーションのサポート部隊」(元統合幕僚監部・将補)に過ぎない。
 対ゴジラ戦での主力部隊はやはり初動から展開まで、ずっと陸自・化学科部隊である。

  「核をエネルギーとするゴジラに対抗できるのは、この分野を専門とする化学科部隊しかありません。
 対ゴジラ戦では核攻撃への対応を応用し、これを殲滅します。
 駆除、捕獲という選択肢はありません(陸自化学学校関係者)
 だが「核攻撃への対応の応用」というだけでは、あまりにも抽象的だ。
 具体的には何を行うのだろうか。
 「詳細は言えないが…。
 原子力発電を“止める”原理の応用と考えてもらえばいい。
 極めて単純至極なそれです」(化学を専門とする2等陸佐)

 以上が、対ゴジラ戦において、自衛隊が考えるというオペレーションのひとつだ。

 だが、元統幕勤務の1佐が語ったこのオペレーションに、元陸将補のひとりは、
 「化学部隊を軸としたオペレーションは国民に化学汚染の不安を抱かせるもの。
 到底納得できない」
と真っ向から反対する。
 そして
 「自分ならゴジラの特性を踏まえ、かつ自国民が放射能被爆に怯えることのないオペレーションを組み立てる」
という。
  「東京湾にゴジラが近づいたならば、海中にいくつか爆弾を打ち込みゴジラの足元を滑らせる。
 その際、航空機ではゴジラの好きな餌をチラつかせてゴジラの目を引く。
 ゴジラが転べば、すかさず埋立地を作る要領でゴジラをコンクリートで固める。
 核融合をエネルギーとするゴジラだからこそ、後生のことまで考えたオペレーションが必要だ」(元陸将補)

 これは、いわゆる「石棺」作戦か。
 いずれにしても、ゴジラの持つ核エネルギーをどう封じ込めるかが、作戦の要となるという見解のようだ。

■「防衛省はわれわれの敵」!
現場自衛官と防衛省の温度差も

 こんな調子で記者のふっかけた“架空の話”にも、制服組の現役・元職自衛官たちは、「私人の立場」と前置きをした上で事細かく質問に答えてくれた。
 だが防衛省本省の職員からは最後まで、具体的な話を聞くことはできなかった。

 実際にゴジラが現れた際、第一線部隊として投入される特別警備隊に所属していた隊員のひとりは、こう息巻いた。
 「たとえ架空の話でも、我々は想定しうる敵をどう倒すかを常に考えなければならない。
 それを示せない防衛省は敵だ――。
 安全保障は我々に任せてもらいたい」。

 防衛省が「敵」だとは穏やかではない発言だが、制服組、つまり現場自衛官と、事務方である防衛省職員のすれ違いが垣間見えた瞬間だった。
 脅威が迫り来れば、わが国の安全保障は待ったなしだ。
 新安保法制以降、その権限が縮小されつつあるといわれる防衛省と、これまでにないほど士気旺盛といわれる自衛官たちの意識の差が、この言葉に詰まっているかのようだった。


新潮社 フォーサイト 8月26日(金)12時45分配信 政策工房社長 原英史
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20160826-00010000-fsight-pol

霞が関の視点から「シン・ゴジラ」を見る 
:危機管理とポピュリズム

 「シン・ゴジラ」は、政府における危機管理を描いた映画として、とてもよくできている。
 筆者は、かつて通商産業省から内閣官房の危機管理担当の部局に出向したことがある。
 映画にも出てくる「内閣危機管理監」の下、当時、東海村JCO臨界事故(1999年)や、西暦2000年の正月(コンピュータ誤作動による問題発生のおそれがあったことから警戒態勢をとっていた)など、オペレーションルームでの対応にあたった経験があるが、それに照らしても違和感はほとんどない。
 それぐらい、よく関係者に取材して作られていると思う。

 よく取材され過ぎたが故か、この分野の専門用語が当たり前のように使われている。
 例えば、冒頭で出てくる「緊急参集チーム」や「官邸連絡室を官邸対策室に改組」など、馴染みのない人にはなかなか理解できないのでないかと心配になるぐらいだ。
 これから映画をみられる方は、あらかじめ以下のページにざっとでも目を通されておくとよいかもしれない。【内閣官房ホームページの「内閣官房副長官補」の項】

■「問題提起」と「解決策」

 エンターテインメントとしての面白さは脇において、ここでは敢えて、この映画を「政府の危機管理」に関するレポートと読み替えてみたい。
 レポートの構成に直してみると、要するにこんなことだと思う。
 
★.1]、問題提起: 
 日本政府の危機管理では、以下のような要素が混乱・阻害要因になりがちだ。
(1):形骸化した会議や、無用な形式にとらわれた意思決定メカニズム
(2):危機感や判断・決断能力の欠けた政治家
(3):パニック回避に偏りがちな国民向け情報提供
(4):縦割りで硬直的な官僚機構
(5):緊急時の対処に貢献できない御用学者
(6):自衛隊の活動に関する強固な制約
(7):過剰な対米配慮

★.2]、解決策: 
 だが、優れた政治家が、的確に官僚機構や専門家集団を活用することで、危機管理を成功に導くことができる。

 このレポート構成は標準的な内容で、筆者も概ね違和感がない。
 このため、映画の前半の「1、問題提起」部分も、よくあることだなと思いながらみていた。

■「中途半端」ゆえのリアルさ

 ネタバレを避けるため個々の項目につき詳細を紹介することはやめておくが、全般に、かなりリアルで、現実に即した指摘がなされている。
 例えば、
(1):では、初期段階の官邸での会議で、官僚に渡されたメモを早口で次々読み上げる大臣たちが出てくる。
 戯画化された情景と思われるかもしれないが、実際、危機管理時でなく平時の官邸の会議でもよくみられる状態だ(平時の場合は、大臣の発言時間が「ひとり2分」などと限定されて、早口になるのだが)。
また、(2):で、緊急事態にもかかわらず、有権者向けのアピールばかり意識する政治家、それを見越して、作戦プランに政治家の名前をつけることを提案する官僚なども、残念ながら現実にありそうな話だ。
(3):では東日本大震災時の「メルトダウン」否定の暗喩と思しき場面など、以下いずれも、これまでもたびたび問題になってきた事柄が列挙されていく。

 興味深かったのは、この映画では、決定的にダメな政治家は描かれていないことだ。
 ちょっとダメそうにみえた大臣たちも、それなりに頑張ったりする。
 おそらくエンターテインメントとしては、もっとダメな政治家を描き、それとの対比で主人公を際立たせることもありえただろうが、この点では中途半端で、だからこそいかにもリアルだ。
 要するに、危機管理の機能不全は、特に無能な総理大臣などといった特殊ケースでのみ顕在化するわけではなく、さまざまな要因によって現実の多くのケースで起こりがちであることが的確に「問題提起」された、優れたレポートになっている。

■「矢口チーム」の優秀さ

 そのうえで、「2、解決策」では、「優れた政治家が、的確に官僚機構や専門家集団を活用する」という方策が示される。
 ここでも、エンターテインメントとしては、例えば、機能不全に陥る政府機構の枠外から人材が現れて活躍するなどといった展開もありえただろうが(過去のゴジラ作品にはある)、「シン・ゴジラ」はあくまで現実的だ。
 官邸の矢口官房副長官のもと、関係省庁(文部科学省・環境省・厚生労働省・経済産業省など)の官僚や研究者を集めた特命チームが結成され、彼らが核となり、自衛隊や民間の協力事業者などが実行部隊となって事を成し遂げていく。
 実は、このように、重大課題に対応して内閣官房に関係省庁から人を集めて特命チームを設ける方式は、現実にもよくとられる。
その意味で、斬新性には欠けるが、現実的で有効な「解決策」が示されているといってよい。

 なお、若干映画の中味に立ち入るが補足しておくと、矢口官房副長官のもとには、「出世とは無縁のはぐれものの官僚や研究者たち」が集められたとの説明がある。
 しかし、その後の働きぶりをみると、必ずしもそんな感じではなさそうだ。
 彼らは、出身省庁の枠を外れて活動しながらも、必要なときには出身省庁と連携し、そのリソースとネットワークをフル活用して、役割を果たしていく。
 筆者からみれば、これは内閣官房に出向する官僚のお手本のような仕事ぶりだ。
 その意味で、矢口チームには優秀な官僚たちが集められて機能したと考えてよいと思う。

■「ポピュリズム」と「専門家の専制」の間

 危機管理から話を少し広げると、ポピュリズム的風潮(あるいは、既成の政治家・官僚などの専門家集団への不信)が社会に広がる中で、敢えてこうした解決策が提示され、多くの観客から支持されていることも、筆者にとっては興味深い。
 政治家や官僚に対する信頼は低迷を続けている。
 大企業、マスコミ、自衛隊、医療機関など各種機関への国民の信頼感調査では、政治家と官僚が常に最下位争いの状態だ【『「議員、官僚、大企業、警察等の信頼感」調査』参照】。
 このため、最近の舛添要一前都知事のケースもそうだが、何かあると大きなうねりとなって不信が噴出する。

 我が国に限らず、米国のトランプ現象、英国のEU(欧州連合)離脱なども、背景には、これまで政策を担ってきた専門家たちへの不信がある。
 専門家集団への不信は、それ自体はもっともなことだ。
 特定の専門家たちが政策運営を担い続ければ、いわば「専門家の専制」状態が生まれ、癒着や歪み、新たな状況への対応の遅れなどが生じがちだ。
 健全な不信感に基づくチェックは欠かせない。
 しかし、不信が行き過ぎて、既成の専門家集団を否定・排除するような「ポピュリズム」に流されればどうなるか。
 我が国ではすでに、先の政権交代時に経験済みだ。

 「ポピュリズム」と「専門家の専制」という両極端に振り子が動くことをどう回避したらよいのか。
 解決策のひとつは、通常の行政機構のライン外に別働隊チーム(ないし特命チーム)を設け、そこで専門家集団を活用して、「専門家の専制」をチェック・軌道修正していく方式だ。
 制作者にそこまでの意図があったかは別として、「矢口チーム」はその模範例といえる。

 最後に、危機管理に話を戻すと、永田町と霞が関では、この映画のように、およそあり得ない事象を想定して、リアルな事態対処訓練をしておくべきだ。
 危機管理では、マニュアル整備が重要であることは論を俟たない。
 いちいち迷ったり、協議に時間を要して対応が遅れることのないよう、一定事象が起きた場合の行動はできるだけ明確にしておくことが重要であり、これは相当程度既になされてきている(例えば、「東京23区内で震度5強の地震があったら直ちに官邸に参集」など)。
 しかし、考えうるあらゆるケースを想定してマニュアルを整備しても、どうしても
「想定外」の事象は起きる。
 ここ数年でも、「想定外だった」というコメントを何度も耳にしたはずだ。
 したがって、マニュアル整備は最大限に行いつつ、そのうえで、およそあり得ないはずだったことが起きた場合にも備えた訓練を行っておく必要がある。
 「シン・ゴジラ」はそのための良い参考にもなるだろう。

Foresight(フォーサイト)|国際情報サイト
http://www.fsight.jp/



東洋経済オンライン  2016年08月27日 清谷 信一 :軍事ジャーナリスト
http://toyokeizai.net/articles/-/133280

「シン・ゴジラ」で戦う自衛隊はリアルなのか
白熱の戦いに登場する兵器を分析してみた

 7月29日公開の庵野秀明総監督の映画「シン・ゴジラ」が、大ヒットを記録している。
 筆者は本稿を書くために平日の朝一の回で、2回見たが席は7割方埋まっており女性、特に若い女性が多かったことに驚いた。
 その後、参加している読書会の映画の部会でこの「シン・ゴジラ」がテーマとなったのだが、ここでも女性が非常に多かった。
 しかもその多くは過去ゴジラも怪獣映画も見たことのない人たちだった。

 ヒットの理由を筆者なりに考えると初代ゴジラが原爆実験によって生まれたモンスターだったが、「シン・ゴジラ」にも同じく原子力の問題が含まれている。
 詳細は、まだ映画を見ていない読者のために明かさないこととするが、それは先の東日本大震災を経験したわれわれ日本人にとっては大変リアリティのある設定だった。
 近代兵器でもかなわないゴジラは、大震災、大津波、原発事故が重なった先の大震災を彷彿させるものだった。

■主人公は怪獣ではなく人間

 「シン・ゴジラ」は怪獣映画というよりも「日本沈没」や「アウトブレイク」のようなパニック映画だった点もヒットの理由だろう。
 主人公はゴジラではなく、ゴジラという圧倒的な存在に振り回される人間だ。
 そこで日本の縦割りの官僚機構の問題がリアルに描き出されている点も、多くの共感を集めたのではないかと思われる。

 そして、ゴジラと自衛隊との対決もリアルに描かれており、これが今回の映画の華といえる。
 そこで「シン・ゴジラ」における自衛隊の作戦行動を分析してみたい。
 繰り返しになるが、映画のシナリオの詳細を説明するつもりはない。
 それでも、いくつかの断片的なネタを俎上に載せることになるため、まだ映画を見ていない読者は、ここでいったん読み進むのを止めて、映画をご覧になった後に読むことをお勧めする。

 大田区にゴジラが最初に上陸した際、政府は防衛出動と害獣駆除を併せた超法規的な措置をとった。
 これは現実的で合理的な判断といえるのだが、付近に住民が残されていることがわかり、陸自の攻撃ヘリは作戦を中断せざるをえなくなる。
 その後、ゴジラは一旦海中に姿を消してしまった。

 わが国は人口の7割が都市部に集中しているため、都市での戦闘を行う場合、いかに国民(およびその財産)に対する副次被害を防ぐかを真剣に考えないといけない。
 また、1人の命を守るのか、国民全体を守るのか、という点では情緒的ではない厳しい判断を求められる。
 だが自衛隊は副次被害を防ぐ「精密誘導兵器の導入」がトルコなどの中進国からも大きく遅れている。
 後述するが映画では、図らずもその現実が見事に描かれていたといえるだろう。

 その後、海上自衛隊は護衛艦や対潜ヘリを投入して海中に消えたゴジラの探索を行う。
 ところが見つけることができず、ゴジラは突然、相模湾に姿を現す。
 この点はややリアリティに欠けている。
 おそらくゴジラは海中を泳ぐか海底を歩いてきたはずだ。
 そうであれば、ソナーには何らかの反応はあるだろう。

■なぜ水際で攻撃をしないのか

 日本政府は水際防御を諦めて初めから内陸の多摩川沿いに防御線を敷いた。
 この作戦は、率直にいって正しいとはいえない。
 縦深の浅いわが国で、敵を内陸に呼び込む作戦は極めてリスキーだ。
 上陸による被害を最小化するためには、まず水際での攻撃が不可欠である。
 よしんば撃破が無理でもダメージを与えておけば内陸での攻撃による副次被害を最小限に止め、またとどめを刺せる可能性も大きくなる。
 ゴジラに通常兵器はほとんど効かないのだが、それは後になってわかる話であり、まずは水際で攻撃をしなければならない。

 ゴジラが海岸付近に至ってからようやく探知できたとしても、自衛隊には多様な攻撃の手段がある。
 たとえば空自のF-2戦闘機による爆撃や、P-3CやP-1哨戒機による対艦ミサイル、護衛艦による艦砲射撃(射程16~24キロ)、対艦ミサイルによる攻撃は可能だ。
 また陸自も長射程(射程は公表されていないが、約170~180キロ)の88式地対艦誘導弾およびその後継の12式地対艦誘導弾などの対艦ミサイルを有している。

 その他陸自の榴弾砲も射程が長い。
 劇中にも出てきた最新型の99式自走155ミリ榴弾砲の射程は約40キロだ。
 99式は川崎の防衛線に配備されており、この射程ならば東京湾はもちろん、小田原や南房総までがギリギリ射程に入る。
 またMLRS(多連装ロケットシステム)は射程70キロのGPS誘導ロケット弾を使って御殿場から多摩川沿いの防衛線のゴジラを攻撃している。
 当然ながら相模湾も射程に入っている。

 なぜ水際でゴジラを攻撃しなかったのだろうか。
 それはズバリ上映時間の問題だろう。
 本作品の上映時間は2時間以内と決めており、その中で何度も見せ場の戦闘シーンを盛り込めなかったに違いない。
 過去のゴジラシリーズでも、見せ場は内陸での陸自部隊とゴジラの対決である。
 そこで、内陸部での決戦に見せ場を絞ったのだろう。

 ただ、そもそも論でいえば、ゴジラの再上陸が関東という保証はなかった。
 極端な話、沖縄に上陸する可能性もあったはずだ。
 だが最初に東京に上陸したので、その近辺に再上陸する可能性は高く、また最重要な首都を守るために戦力を集中したようだ。
 作品中でも記者がそのような発言をしている。
 ただし中京地区や東北などにゴジラが上陸して破壊の限りを尽くしたら政権は世論の批判を浴びるだろう。
 一点張りをした首相には胆力があった、といえる。

 多摩川沿いの防衛線において、日本政府が副次被害を非常に気にかけているシーンが印象的だ。これは当然だろう。

 だが不思議なことに当初の攻撃ヘリの機関砲による攻撃ではゴジラの頭部をぼぼ水平から狙っていた。
 頭部は小さく、また体の上部にあるので、外したり、跳弾する可能性が高くなる。
 機関砲弾の流れ弾は数キロも飛ぶ。
 しかも弾頭は爆発するので極めて危険だ。
 本来ならば俯角をかけて腹部を狙うべきだ。
 それをやらなかったのは絵になりにくいからだろう。

 登場した攻撃ヘリのAH-64Dアパッチは陸自には13機しかなく、稼働しているのはせいぜい、5~6機。
 つまり本編に登場したくらいの機数が、陸自が投入できる最大機数であり、その点では大変リアルである。

■自衛隊は精密誘導兵器導入が遅れている

 ここで自衛隊の精密誘導兵器導入が遅れている点を指摘しておきたい。
 本編においてF-2戦闘機は誘導弾「JDAM」を使用した。
 この誘導弾はGPS/INS(慣性誘導)を採用しているが、自衛隊が採用しているタイプは本来、レーザー光線による終末誘導が可能である。
 通常の誘導は家に命中する程度の精度、レーザー誘導ならば家のうちの1つの窓を狙える精度である。
 ゴジラのサイズであれば通常の誘導でもいいのだが、相手は移動する目標であるから、レーザー誘導が望ましい。

 ところが、自衛隊にはその終末誘導をする部隊がない。
 通常のこの種の部隊は航空機に熟知している空軍が持つべきだが、空自はこの種の部隊を保有していない。
 NATO諸国ではチェコやポーランドのような旧東欧諸国やトルコですら専門部隊を有しており、米軍との共同作戦のためにカナダにある演習場で共同訓練を重ね、アフガニスタンでの共同作戦も行っている。
 だが自衛隊には専門部隊もないため、当然ながら米軍との共同訓練も行っていない(陸自が近く編成する水陸両方機動団にはそのような部隊を編成することを決めているため、もしかするとゴジラ出現に間に合うかもしれない)。

 また99式榴弾砲にしても精密誘導弾は存在しない。
 だが先進国はもちろん、中国ですら榴弾砲、そして迫撃砲の精密誘導砲弾を実用化している。 
 これらの砲弾を誘導するためには前方観測部隊なども含めてのネットワーク化が必要だがこの分野でも陸自は大きく遅れている。
 未だに大多数の部隊は紙の地図と音声電話で射撃統制を行っている。

 また、先進国だけではなくトルコやUAEなどを含めた諸外国では攻撃ヘリや無人機用の武器として通常の対戦車ミサイルよりも軽量な無誘導の70ミリクラスのロケット弾の弾頭に誘導装置を装着した誘導ロケット弾や小型のミサイルを開発・導入している。
 人口密集地ではこのようなより威力が低く、副次被害を防げる兵器(小型軽量な分、搭載数は増える)は極めて有用だ。
 だが、これまた自衛隊では導入していない。

 自衛隊は国産兵器を導入する理由として「わが国固有の環境に合致したものが外国にない」ことを理由とする。
 だが現状を見る限り、自衛隊、特に陸自が「わが国固有の環境」に配慮した装備体系を持っているとは言いがたい。

 この攻防戦における最大の華は戦車部隊の射撃だ。
 劇中では最新式の10式戦車と16式機動戦闘車が大量に投入されている。
 16式機動戦闘車は平成28年度予算で初めて36輌が要求されていて、数年後にはこれらが戦力化されるだろう。
 だがより攻撃力を最大化するなら105ミリ砲を搭載した16式機動戦闘車よりも、1990年に採用され、旧式化しつつある90式戦車を使用するべきだった。
 主砲が120ミリで、より破壊力が大きいからだ。

 なお10式戦車も120ミリ砲を搭載しているが、この弾薬は90式と共用ではない。
 90式用の弾薬は10式で使用できるが、10式用の弾薬は強力過ぎて90式の主砲では射撃できない。

 陸自には事実上の装輪戦車である機動戦闘車を含めれば現在、74式、90式、10式、機動戦闘車と4種類の「戦車」が存在し、弾の互換性はもちろん、訓練や兵站も4重となり効率が悪い。
 また戦時における部隊の再編も問題だ。
 たとえば10式のクルーは戦車が撃破されても、90式には搭乗できない。
 相手が怪獣だからそのような陸自の弱点は露呈していないだけだ。

■90式を関東まで運ぶのは難しい

 90式戦車は主に北海道に配備されている
 登場する「戦車」が10式と機動戦闘車になったのは最新の「戦車」を登場させたいという庵野総監督の思いだろうか。
 ただ陸自には戦車を運搬するトレーラーが不足していること(戦車連隊に数輌)、道路が避難民であふれていることから、主として北海道に配備されている90式を関東まで展開できないと考えた可能性もある。
 その点については、「さもありなん」であり、きわめてリアルなように感じた。

 自衛隊の攻撃は失敗し、その後の米軍による攻撃も失敗。
 むしろゴジラの進化をうながしただけだった。
 その後、陸自は「新型無人機」でゴジラの偵察を試みるも、これも撃墜される。

 この無人機は映像から見る限り、回転翼型だと思われる。
 であれば、富士重工業が開発した「無人偵察機システム」だろう。
 だが、このシステムおよび、その前身である特科(砲兵)観測用のFFOSは東日本大震災では一度も使用されなかった。
 防衛省のホームページには開発の目的として
 「大規模災害やNBC(核、化学、生物兵器)環境下における偵察」
と書かれ、開発は大成功と自画自賛をしていたにもかかわらずだ。

 防衛省は国会答弁で、墜落による二次災害の発生を恐れて使用しなかったと述べている。
 つまりは信頼性が低かったから使わなかったということだ。
 同じ答弁で導入から1年しか経っていないため習熟がなされていなかったとも説明している。
 ところが、先の熊本の震災でも使用されなかったのはなぜだろうか。

 つまり、無人偵察機システムを使うことは現状では難しい。
 ただ劇中では単に「新型無人機」と呼称しているので、もしかすると別のまったく新しい機体を想定しているのかもしれない。

 通信についても触れておく。
 劇中では作戦活動での通信の混乱がなかったが、実際の自衛隊がこのような大規模な作戦を行った場合、無線機の不通、不足で指揮通信が大きく混乱する可能性が高い。

 自衛隊、特に陸自は通信を長年軽視してきたために指揮通信網が極めて脆弱だ。
 更新スピードが遅く、3世代の無線機が同居し、充足率が低い。
 しかもそもそも自衛隊に割り当てられている周波数帯が軍用無線に合っていない。

 これは、筆者は長年指摘してきたがそれが東日本大震災で明らかになった。
 無線機が足りず混信が多く、通じないことが多かった。
 その後、陸自は新型無線機の導入ペースは早めたが、周波数帯の問題は放置されており、新型の無線機も通じないと現場で非常に評判が悪い。
 あれだけの「戦訓」があったのに信じられない。
 これまた悪しきことなかれの官僚主義だ。
 しかもネットワーク化も遅れており、米軍との共同作戦に大きく支障がでるだろう。
 米軍がこの件を大きく問題にしないのは、日本の本土戦はないと考えているからだろう。

■無人機を投入する必要はあるのか

 その後の日米合同総攻撃では多くの米軍の無人機が投入される。
 しかし、あえて無人機を投入する必要があっただろうか。
 ゴジラから放たれる光線は直進しかしない。
 地球は丸いので、ゴジラの視界外から別の兵器で十分に攻撃できるだろう。
 無人機であれば撃墜されても人的被害は出ないが、無人機自体が安いものではない。
 また当然ながら無人機に搭載されている対戦車ミサイルを発射する前に撃墜されてしまえば攻撃の効果はない。

 劇中でも米海軍の軍艦が巡航ミサイルを発射していた。
 この巡航ミサイルの数を増やすなり、榴弾砲や先述の国産対艦ミサイルでゴジラの視界外から攻撃するほうが、損耗も少ない。
 さらに榴弾砲など砲弾は放物線を描いて音速以上で上部から攻撃することになるので、亜音速の巡航ミサイルや対戦車ミサイルよりも命中が期待できるだろう。

 だが視覚的な効果と観客に対するサプライズを考えれば、武装無人機の大編隊は大きなインパクトがある。
 演出としては大正解だ。

 あれこれ書いてきたが、映画に過剰なリアリズムを追求するべきではない。
 重要なのはシナリオとのバランスだ。
 庵野総監督は、いくつかの局面であえてリアリズムよりも映画の演出効果を優先したのだろう。
 「現実ではありえないシーンが多い」と、この映画を批判的にとらえるのは無粋である。
 エンターテインメント作品は観客がドキドキハラし、泣いて笑ってナンボである。
 観客が満足感をもって映画館を去れれば、それでいいのだ。
 少なくとも2回鑑賞した筆者は、2回とも大満足して劇場を後にした。
 』


ダイヤモンドオンライン 2016年8月23日 竹井善昭 [ソーシャルビジネス・プランナー&CSRコンサルタント]
http://diamond.jp/articles/-/99586

日本人はなぜ「ゴジラ映画」を作り続けるのか?

 2016年の日本の夏は、「現実」と「虚構」の戦いの夏だったといえる。
 ふたつの大きな話題が、まさに現実と虚構をテーマとしたものだったからだ。

 ひとつは「ポケモンGO」で、まさにAR(拡張現実)により、現実の世界の中に虚構の生物(ポケモン)が登場し、それを僕らがリアルに楽しむという、現実と虚構の融合という新しい娯楽体験を提供した。
 もうひとつは、映画『シン・ゴジラ』だ。この映画、ポスターのキャッチコピーは
 「現実(ニッポン) 対 虚構(ゴジラ)」
 というもので、まさに現実と虚構が戦う映画だった。

■「現実 対 虚構」に込められた意味

 しかし、このコピー、よく考えればかなり意味深だ。
 そこには「虚構(映画)は現実社会を超えられるか?」というニュアンスが込められていると思うが、虚構が現実を超える、現実に打ち勝つということはどういうことなのか。
 これはなかなか難しい問題だ。
 さまざまな意見があるかと思うが、僕はそれを
 「現実と虚構(この映画)、どちらが人々に対してリアリティを感じさせるか?」
ということではないかと思っている。

 もちろん、この場合の「リアリティ」とは、単に「現実」、つまり「現に、実際に、事実として起きていること」という辞書的な意味ではない。
 そもそも「現実とはなにか?」という問いに対する答えはそう簡単ではないのだ。
 たとえば「幻影肢」(幻肢ともいう)という現象がある。
 これは、事故などが原因で脚や腕などの四肢を失った人が、ないはずの四肢の存在や痛みを感じるという現象だ。
 もちろん、その痛みとは切断面の痛みではない。
 たとえば、膝から下を切断したのに、(失ったはずの)つま先に痛みを感じたりする。
 これを幻肢痛というが、生まれながらにして脚や腕を持たない人でも、幻影肢や幻肢痛を感じることもあるという。

 では、この場合の「現実」とはいったいなんなのか。
 腕や脚がないという「客観的な事実」が「現実」なのか。
 それとも、痛みや存在を感じるその感覚の方が「現実」なのか。
 「現実」を「現に、実際に、事実として起きていること」という意味だと定義しても(辞書ではそう定義されている)、幻肢痛を感じている人間にとっては、その痛みとは「現に、実際に、事実として起きていること」である。
 実際には存在しないつま先に痛みを感じることは、その人間にとってはやはり「現実」なのだ。

 この幻影肢、幻肢痛の例だけから考えても、「現実とはなにか?」という問いは非常に難しく、深いものがあることがわかる。
 だから『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実 対 虚構」という言葉も、実際のところ、いったいなにを語りかけているのかを判断することは難しいのだが、今回はそのことを踏まえながら、日本人はなぜゴジラ映画を作り続けるのか、作らずにはいられないのか、を考えたい。

■なぜゴジラはいつも「復活」するのか?

 ゴジラシリーズは今回の『シン・ゴジラ』で29作目となる長期シリーズだ。
 第一作目の公開は1954年で、60年以上にわたって作られ続けている。
 「昭和ゴジラシリーズ」
 「平成ゴジラシリーズ」
 「ミレニアムシリーズ」
を経て、
 今回の『シン・ゴジラ』は第四期
だ。
 なぜ、こう何度もシリーズが打ち切られているかというと、儲からなくなったからだ。
 第二期の平成ゴジラシリーズはちょっと事情が違うようだが、第一期と第三期は、
 「大ヒットする」
→「客受けを狙って、子どもだましの怪獣プロレス映画になる」
→「観客動員数が減る」
→「シリーズ打ち切り」
のパターンだ。

 第一作(1954年)で961万人を動員したゴジラ映画は、1960年代の怪獣ブームもあって毎年のように量産されたが、68年の『怪獣総進撃』で300万人を大きく割り込み(258万人)、その後は100万人台を推移しながら、75年の『メカゴジラの逆襲』では97万人と、ついに100万人を割ってしまう。
 ここで昭和ゴジラシリーズは終了となるが、9年後の84年、「ゴジラ」が公開され、320万人を動員するヒット。
 その後、再びシリーズ化され、200万人~400万人の動員を確保するドル箱シリーズとなるが、ハリウッド版『GODZILLA』の制作決定を機に、95年の『ゴジラvsデストロイア』にてシリーズ終了。

 そして、1999年の『ゴジラ2000ミレニアム』にてミレニアムシリーズが開始されたが、動員数は100万人~240万人の間を推移。
 2003年の『ゴジラ×モスラ×メカゴジラ 東京SOS』では、110万人と当時のワースト3を記録。
 打ち切りが決定した後の2004年『ゴジラ FINAL WARS』では100万人と、動員数はさらに低下した。
 その後、2014年にはハリウッド版ゴジラが公開されるが、日本制作としては、今回の『シン・ゴジラ』は、12年ぶりの作品である。

 普通なら昭和ゴジラシリーズ、あるいはミレニアムシリーズが終了した時点で、
 ゴジラ映画は永遠に封印されてもおかしくないのだが、ゴジラはいつも復活する。
 今回の『シン・ゴジラ』も、2014年のUS版ゴジラの世界的大ヒット(興行収入約400億円)を受けての企画という判断もあるだろうが、
 「やはりゴジラは(そして怪獣映画は)日本人の手で作らねばならない」
という、日本の映画人の意地というか、矜持みたいなものを感じる。

■「国難」とともに復活するゴジラ

 ゴジラは国難とともに誕生(復活)する。
★.初代ゴジラは1954年公開だが、当時は東西冷戦のまっただ中。
 その冷戦は1949年から世界規模で拡大する。
 朝鮮戦争は1950年から1953年。
 また、またビキニ環礁における水爆実験で、日本の第五福竜丸など多くの漁船が被爆被害にあったのは1954年3月で、この事件がゴジラ着想のきっかけになったのは有名な話だが、当時の日本はまだ戦後。
 経済企画庁が「もはや日本は戦後ではない」と宣言したのは1956年のことである。

 つまり、戦争の記憶も、広島・長崎の記憶もまだ生々しかったあの時代に、東西冷戦と、それにともなうアメリカの度重なるビキニ環礁での核実験。
 特に1954年から開始され、第五福竜丸などが被害にあった水爆実験は、広島型原爆の1000倍の威力を持つとも言われていた。
 当時の日本人の危機感、恐怖心は今日の僕らでは想像もできないくらい大きかったはずだ。

★.平成ゴジラシリーズがスタートした1984年は、日本経済が全盛期へと向かう時代ではあったが、その一方で、1978年にソ連(当時)がアフガニスタンに侵攻。
 それに抗議して西側諸国が1980年のモスクワ・オリンピックをボイコット。
 これに対抗して、今度は東側諸国が1984年のロサンゼルス・オリンピックをボイコット。東西関係はどんどん緊迫度を増していった時代だ。

 また、70年代後半から日米貿易摩擦も勃発。
 80年代に入ってからはカラーテレビなどの電化製品や自動車を巡って、激しい摩擦が生じていた。
 アメリカの労働者たちが日本の自動車輸出に抗議して、日本車をたたき壊すパフォーマンスの映像は何度もニュースで流された。
 アメリカの核の傘の下で経済成長を遂げてきた日本にとって、東西関係が悪化する中での日米関係の悪化という状況には、これまた大きな危機感を抱いていたはずだ。

★.ミレニアムシリーズは1999年から始まるが、1997年には山一証券、三洋証券、北海道拓殖銀行など金融機関が次々と破綻。
 特に拓銀の破綻は、当時の日本人は銀行は絶対に潰れないと信じていただけに大きなショックを与えた。
 1999年からは、世界的ないわゆるITバブルが始まるが、ミレニアムゴジラが企画されていた当時は、日本経済崩壊の大きな危機感が日本中を覆っていた時期だ。

■日本人にとっての怪獣とは?

★.そして『シン・ゴジラ』である。
 多くの人が指摘しているように、これは東日本大震災と福島の原発事故がモチーフとなっている。
 この映画で描かれる、ゴジラが破壊した街並み(ガレキの山)や避難所の様子などは、まさに東北で僕が実際に見てきた光景そのものだったし、もっと言えば、熊本でつい最近、見てきたばかりの光景そのものだった。
 それだけにこれらのシーンは、僕にはかなり強烈なインパクトとリアリティを感じさせてくれた。
 この映画を3.11と関連づけて語る人も多いが、もっと熊本のことも考えるべきだと思う。
 もちろん『シン・ゴジラ』の制作時には熊本地震は起きていなかったが、公開直前にあの地震が起きたことも、このゴジラという映画が持つ宿命みたいなものを感じてしまう。

 日本の国難とともにあるという意味では、ゴジラはやはり日本人の映画だし、というか怪獣映画というものは、やはり日本のものなのだと思う。
 怪獣映画は日本独特のものだ。
 ハリウッドには怪獣映画の歴史はない。
 『ジュラシック・パーク』は恐竜映画だし、『キングコング』は怪物映画だ。
 韓国や北朝鮮も怪獣映画を作ったことはあるが単発的なもので、日本のようにゴジラ、ガメラ、モスラなどさまざまな怪獣を生み出したり、数多くのシリーズ作品を生み出したりはしていない。
 なぜ、日本人はこれほどまでに、多くの怪獣映画を作り続けるのかーー。
 それは、日本人にとっての怪獣とは「荒ぶる神」であり、怪獣映画とは「日本の神話なのだ。

 もちろん、「荒ぶる神」そのものは日本独自のものではない。
 同様の神は世界中の神話に登場する。
 しかし、神話の中に怪獣が登場するのは日本だけではないか。
 たとえば旧約聖書には巨人ゴリアテが登場するが、これは身長約3メートルの巨人で、とても怪獣とは言えない。
 ギリシャ神話にも、たとえばメドゥーサのような怪物が登場するが、これも怪獣ではない。
 しかし、日本の神話に登場するヤマタノオロチは怪獣だ。
 その全長は、八つの山と八つの谷を越えるとされる、巨大な怪獣なのである。
 要するに、ゴジラとは現代のヤマタノオロチなのだ。

■ハリウッド版にはない、ゴジラのDNA

  『シン・ゴジラ』をめぐっては、ネットではちょっと奇妙な空気感が流れている。
 この映画を賞賛するブログ記事やSNSでの投稿がどんどん増大しているが、そうなると批判意見も出てくる。
 それは当然ではあるのだが、『シン・ゴジラ』に対する批判記事を書くと、即座にサヨク認定されてしまうという風潮ができあがっている。
 批判記事をアップすると「サヨクは宮崎アニメでも見てろ!」みたいな「罵声」が浴びせられるのだが、なぜ、この映画を批判するとサヨク認定されるのか

 また、一部ではこの映画を「新・国策映画」だと「批判」する人間もいる。
 ある種の人間はなぜ、そのような感想を抱くのか。
 それはやはり、ゴジラや怪獣映画というものが、日本の神話だからだ。
 神話というものは基本的に国作り物語であり、民族のアイデンティティである。
 だから、神話を否定する人間に対してはサヨクだと批判が集まるし、民族的アイデンティティなどというものを否定したい人は、映画に神話の臭いを感じると「国策映画だ!」と批判する。

 批判も賞賛も、それは見る人の自由なのだが、
 ゴジラには禍々しさと神々しさが同居している
ことは、思想とは関係なく感じてしかるべきだ。
 その神々しさは、ゴジラが神話だからこそ生まれるものであって、ハリウッド版では、1998年公開の、いわゆる『トカゲ・ゴジラ』はもちろんのこと、2014年公開の『GODZILLA』にも、神々しさは感じられない。
 当然だが、欧米人には日本の神話のDNAはないし、ヤマタノオロチのこともわからない。
 だから、「本当のゴジラ」「神話としてのゴジラ」は、日本人でなければ作れない。
 そして神話とは、語り継ぐべきものだ。
 日本でゴジラ映画を作り続けることの意味と理由はそこにある。

 そして、神話とは基本的に「虚構」だ。
 しかし、その「虚構」は現実のメタファーであり、メタファーであるが故に、現実以上に民族のリアリティというものを人々に感じさせる力がある。
 『シン・ゴジラ』のキャッチコピー「現実 対 虚構」とは、そのような意味で、虚構は現実を超えたリアリティを生み出すというメッセージではなかったかと思う。

*以下はネタバレありにつき、注意
 ゴジラがヤマタノオロチであることは、最後のシーンにもキッチリと描かれている。
 映画の最後、ゴジラは血液凝固剤を経口投与され凍結する。
 これは、スサノオノミコトがヤマタノオロチを退治する時に、酒を飲ませ酔って寝てしまったところを退治したエピソードの踏襲だ。
 その時、ヤマタノオロチに飲ませた酒の名前を「ヤシオリノサケ」(八塩折之酒)という。
 ゴジラ退治の作戦名も「ヤシオリ作戦」だ。

 やはり『シン・ゴジラ』はヤマタノオロチであり、日本古来からの「神話の現代版リメイク」だったのである。







【自ら孤立化を選ぶ中国の思惑】



_