2016年9月3日土曜日

『シン・ゴジラ』にみる緊急事態対応(2):自分を客観的に評価できない国民を相手にすることの苦労

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WEDGE Infinity 日本をもっと、考える 2016年09月03日(Sat)  塚崎公義 (久留米大学商学部教授)
http://wedge.ismedia.jp/articles/-/7676

政府は住民の避難が完了するまでゴジラへの攻撃は待つべきか、
直ちに攻撃すべきか?

 『シン・ゴジラ』という映画が流行っているようですので、ゴジラに関する頭の体操をしてみましょう。
 もし、本当にゴジラが上陸したとして、都心に向かって歩いているとしたら、早急に撃退する必要があります。
 でも、住民の避難が終わる前に攻撃したら、その地域の住民は死んでしまうでしょう。
 それでも攻撃すべきでしょうか?

■「ゴジラを攻撃しなければ誰が死ぬか」はわからない



 攻撃すれば、その地区で逃げ遅れた少数の人が死にます。
 一方で攻撃しなければ、都心で大勢の人が死ぬと予想されます。
 大勢の人を救うためには、少数の人の犠牲はやむを得ませんから、攻撃すべきでしょう。
 大きな被害を避けるために小さな被害を引き起こすことは「緊急避難」ですから非難すべきではありません。

 撃退すれば、多くの人が助かるでしょうが、問題は、「助かった人が政府に感謝するわけではない」ということなのです。
 ゴジラが都心方面に歩いて行くとして、具体的にどの家が踏み潰されるのかを予測することは不可能です。
 そこで、都心の住民は「政府がゴジラを撃退しなかったとしても、自分は死ななかったはずだ」と考えるでしょうから、政府に感謝するわけではないのです。

 そうなると政府は、自分の保身を考えて「攻撃しない」という選択をするインセンティブを持つことになりかねません。
 攻撃すれば、逃げ遅れた住民の遺族から批判される一方で、攻撃しなければ逃げ遅れた人から感謝されるからです。
 都心の被害者から苦情が来ても、「逃げ遅れた住民を見殺しに出来なかったので、仕方なかった」という言い訳が可能です。

 政府が保身から攻撃を思いとどまるとすれば、それは日本にとって悲劇です。
 一方で政府が、自分が批判されることがわかっていながら、日本にとって最善の選択(逃げ遅れた住民を見殺しにしてゴジラを撃退する)をするとすれば、それは素晴らしいことです。
 そして、政府はそうした苦しい選択に迫られる場合も少なくないのです。

■満員のプールに刃物犯が現れたら……

 先日、混雑したプールに刃物を持った犯人が現れて、女性数人に切り傷を負わせた、という事件がありました。
 被害者の方々にはお見舞いを申し上げます。
 さて、そうした際、会社として、
 「刃物を持った不審者がいます。気をつけて下さい」
というアナウンスをすべきでしょうか? これも難しい判断です。

 アナウンスをしなければ、人々は刃物犯に対して無防備のままですから被害者が増えるかもしれません。
 しかし、混雑したプールでアナウンスをすれば、大勢が出口に殺到して大混乱になり、転倒等による怪我人が多発するかもしれません。

 どちらのリスクが大きいかを判断して、適切な対応を採る必要があるでしょう。
 ゴジラの場合は、撃退した方が被害が少ないことが明らかなので、意思決定はある意味簡単なのですが、本件ではどちらのケースも被害が読めないので、悩みは深いと言えるでしょう。

 さて、会社の保身を考えた場合には、どちらが得でしょうか? 
 アナウンスをしない場合、二人目以降の被害者は「アナウンスをしていれば自分は被害に遭わなかったはずだ」として会社を訴えるかも知れません。
 一方で、アナウンスをした場合には、出口で怪我をした人が会社を非難する可能性は低いでしょう。
 「被害の拡大を防ぐ必要があった」と会社に言われれば、それまでだからです。

 誰かが感謝してくれるかと言えば、アナウンスを行っても行わなくても、誰からも感謝されません。
 アナウンスが無かった場合、「アナウンスがあったら自分は出口で転倒して怪我をしていただろう」と考える人はいませんし、アナウンスがあった場合、「アナウンスがなければ自分が刺されていたはずだ」と考える人もいないからです。

 その意味では、保身だけを考えればアナウンスを行うべき、ということになりますが、筆者が責任者であれば、出口での大混乱も避けたいところですし、悩むでしょうね。

■予防接種を実施するか否かも難しい判断

 予防接種は、受ければ病気に罹る確率は減りますが、副作用の可能性があります。
 認可されている予防接種であれば、期待値としては病気予防のメリットが副作用のデメリットを上回っていると考えて良いでしょうが、それでも医師にとっては難しい問題です。

 副作用を患った患者からは批判される(場合により訴えられる)一方、メリットを受けた客からは感謝されないからです。
 「自分は予防接種を受けなければ病気になっていたはずなのに、接種のおかげで助かった」と考える人はいないからです。

 そうなると、医師としては訴えられるリスクを考えて予防接種を実施しない、というインセンティブを持ちかねません。
 ただ、この場合は解決策があります。
 予防接種の価格を高めに設定して大きな利益を稼ぎ、その利益で「副作用で訴えられたら代わりに賠償してくれる保険」に加入すれば良いのです。

 では、薬を認可する厚生労働省はどうでしょうか? 
 こちらは保険に加入できないので、深刻な問題です。
 副作用を患った患者から「どうして認可したのか」との苦情が来る一方で、誰からも感謝されないからです。
 それでも国民のために認可をしている担当者には、敬意を表するべきでしょう。

■自分を客観的に評価できない国民を相手にすることの苦労も

 人間は、自分を客観的に評価するのが苦手です。
 人々に「あなたは字(あるいは運転等々)が上手な方ですか?」と聞くと、半数以上が「はい」と答えるのだそうです。
 人事評価に不満を持つサラリーマンが多いのも、半分以上の人が「自分は仕事が出来る方だ」と思っているからなのでしょう。

 そうした中で、たとえば自由貿易協定を締結したとします。
 輸出が減った農家は「自由貿易協定のせいだ」と怒りますが、輸出が増えた製造業は「自分の努力が報われた」と考えがちです。
 景気対策を打てば失業者が減りますが、減った失業者は「政府のおかげだ」とは考えません。
 「自分が真面目に求職活動をしたから仕事が見つかった」と理解するわけです。
 そうなると、「景気対策で財政赤字が増えた」という批判だけを受けることになります。

 以上のように、意思決定者は「自分の保身を考えると実施すべきではない案件」でも、人々のために必要なものは実施するべき、という難しい立場にあるのです。

 政府の個々の政策には様々な賛否があると思いますし、反対の時は反対意見を明確に述べるべきだと思いますが、賛成反対とは別の次元で、政府がこうした苦しい選択をしているのだ、という事を考えながら、その責任を負って日本のために頑張ってくれているという事には、素直に敬意を表したいと思います。



JB  Press 2016.9.7(水)  部谷 直亮
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/47800

シン・ゴジラが示す日本の防衛体制の絶望と希望
日本に必要なのは合理的な危機管理の運用


●映画『シン・ゴジラ』のワンシーン(公式サイト、予告編より)

 映画「シン・ゴジラ」が好調である。
 筆者も公開初日を含めすでに4回見に行ったが、まさしく傑作であると評価している。
 官僚や自衛官の関心も高く、筆者の周囲だけでも、駐屯地が辺境過ぎる人間を除き、こぞって見に行っているようである。

 シン・ゴジラについてはすでに様々な立場の方々が様々な観点から語っているが、以下では日本のあるべき危機管理体制、防衛体制という観点から、シン・ゴジラの読み解き方、シン・ゴジラから得られる教訓などを論じてみたい(ストーリーの紹介、ネタバレを含むので、未見の方はご注意いただきたい)。

■風呂に入らず睡眠もとらないチームトップ

 まず指摘したいのは、シン・ゴジラには、危機管理の混乱の中でこそ光る
 「“絶望的”な日本人の美学」
が描かれていたという点だ。
本作はその美学を描くために余計なものを一切はぎ取り、
 徹底的に国家の意思決定の過程の忠実な再現
を試みた。
 まさにミニマリズムとリアリズムの極致のような作品であり、その意味で、既に言われているように、1967年公開の「日本のいちばん長い日」(岡本喜八監督による終戦までの混乱を描いた作品)の後継作と言って差支えないだろう。

シン・ゴジラが示す日本人の美学とはどのようなものか。
 それは、一心不乱にろくな食事も睡眠もとらずに働くことこそが美しいという
 日本人ならではの労働観
である。
 ゴジラを化学的に機能停止に追い込むためのプランを練る対策チーム「巨災対」は、全員が不眠不休で働き、食事はお茶とお握りとカップうどんが中心だ。
 チームトップで主人公の矢口官房副長官(政務)は風呂にも入らず睡眠もとらない。

 矢口官房副長官付の秘書官はこうした光景を見て、
 「家族もいるだろうから帰ってくださいと言っても帰らない。
 帰ったかと思えば早朝から手料理持参で、不眠不休で頑張ってくれている。
 マジ感動ですよ」
という趣旨の発言をし、疲れ切った官房副長官は
 「この国はまだまだやれる。そう感じるよ」
と返す。
これは日本人からすると確かに美しく、感動的な光景である。

■寝不足が招く無残な結末

 しかし、文学的な美しさを追い求めた三島由紀夫が政治的には無残な敗者で終わったように、
 その美しさは絶望的な敗北への道でしかない。

 戦争において睡眠不足と栄養不足と不衛生を極めた集団がどのような結果になるかは、太平洋戦争の中盤以降の悲惨で無残な各戦線における展開を見れば明らかである。
 特に睡眠不足は深刻だ。
 ブリティッシュコロンビア大学心理学部教授のスタンリー・コーレンによると、チェルノブイリ原発事故、スリーマイル原発事故、チャレンジャー号事故は睡眠不足が引き金となったという。
 また、1980年代中葉、米巡洋艦「ヴィンセンス」の乗組員は睡眠不足のため民間機を戦闘機と勘違いしてミサイルで撃墜し、200人以上の民間人を殺害してしまった事実もある。

 日露戦争でも興味深いエピソードがある。
 長南政義氏の大著『新史料による日露戦争陸戦史』(並木書房)によれば、第二軍司令部は「敵の軍旗を鹵獲した」と報告し、明治天皇の耳にまで達したが、これが軍旗ではなかったことが判明。
 第二軍司令部内の責任問題に発生し、遼陽会戦後に参謀長が更迭された。
 これは第二軍の参謀が36時間不眠不休のあまり夢と現実が分からなくったことで勘違いしてしまったことが原因だったというのである。

 これは現代の自衛隊でも変わらない。
 例えば、日米合同演習を行うと、自衛官側が不眠不休かつ戦闘糧食で短期的には圧倒するのだが、米軍側は規則正しいシフトで十分な睡眠と温かい食事をとって長期的に優位に立つということが繰り返されていた。
 近年の演習は交代制となり、普段よりも寝ることができるという皮肉な事態になっているが、平時と有事に寝不足が頻発するのは変わっていない。

 睡眠には「辛い出来事からのショック」を癒し、「混乱する思考」を整理し、やる気と元気を回復する機能がある。
 だが、寝不足だと、やる気、元気がどんどんそがれていき、うつ病に陥ってしまう可能性もある。

■疲れた時ほど栄養に富んだ食事を

 もしも、映画の中で巨災体チームが三交代制で規則正しく業務を行い、矢口官房副長官が定期的に睡眠をとって熱い風呂に入り、チーム全員が高級なカツサンドや天丼、すき焼き弁当、高級アンパンなどを頬張りながら対策を練っていたら、観客はどう感じただろう。
 筆者も含めておそらく感情移入はできず、共感も感動もすることはなかっただろう。

 1990年代のことだが、政府の危機管理チームには、大物政治家からよく差し入れがあったという。
 政治家はポケットマネーで高級寿司、すき焼き弁当、木村屋のアンパンなどを惜しげもなく差し入れ、士気を高めたのだ。
 現在でも、重要な会議では甘いドーナツを用意したり、気合を入れるときはステーキサンドを用意する優秀な官僚は多い。
 疲れた頭と体には何が必要なのかを知っているのである。

 日本を守るために不眠不休・粗衣粗食でゴジラに立ち向かう巨災体チームの姿を“美しい”と感じるメンタリティには危うさが付きまとう。
 それよりも、今の日本に必要なのは合理的な危機管理の運用である。
 防衛省内局・自衛隊に蔓延する慢性的な寝不足問題を解決し、国民は危機時のリーダーやスタッフには粗衣粗食ではなく「結果」をこそ求めていくべきである。

■既存の軍事技術と最先端の民生技術を組み合わせる

 他方で、日本の防衛が進むべき道を示唆してくれているシン・ゴジラの“希望的”側面にも触れておきたい。

 本作では、
 MQ-9リーパー無人機による6次にわたる波状攻撃、
 無人新幹線および在来線爆弾、
 トマホーク巡航ミサイルと仕掛け爆弾によるビル倒壊攻撃でゴジラを行動不能に追い込み、
 製薬会社に急きょ大量生産させた血液凝固剤を、これまた民間のコンクリートポンプ車で飲み込ませて機能停止に追い込む。
 こうした、最新技術と在来の装備をミックスして新たな作戦構想で運用するという発想は、最近の米国国防総省が目指す方向性と重なっている。

 レールガンやレーザー兵器、人工知能によるサイバー兵器、極超音速ミサイル、ロボット兵士など10~15年以上かかる開発ばかりでは、中国などの現実の脅威に対応できない。
 そこで、現時点で即時実戦投入可能な技術を探し出して、新たな作戦構想で活用しようというのが最近の国防総省の考えだ。

 2012年に、その具体的な運用方法を模索する組織が創設された。
 「戦略能力室(SCO)」という秘密機関がそれである。
 この組織は、2016年にカーター国防長官によって初めて公表され、予算も当初のゼロに等しい状況から急拡大し、今や5億ドル以上を誇る機関となっている。
 この組織を率いるウィリアム・ローパー室長は、最近のインタビューで以下のような趣旨の主張を行っている。
 
 「すでにある民間などの技術を新しい作戦構想と結びつけて、実戦で即座に使えるようにするのが、私の役割だ。
 理想は第2次世界大戦初期のドイツの電撃戦だ。
 ドイツは、当時としては約20年前に初めて実戦投入された飛行機や戦車、無線を上手に組み合わせることで欧州を征服した。
21世紀の電撃戦とは、
 ポケモンGOのような拡張現実技術の軍事転用、
 ビッグデータによる予想外の兵器運用(SM-6対空ミサイルの対艦攻撃への有効性の“発見”、
 グーグルカーおよびロボットボートの軍事転用、旧式のB-52改造の重武装航空機)
などだ」

 つまり、今や
 軍事よりも先を行く民生技術や民生品を在来兵器と組み合わせる発想と作戦構想が、今の時代に求められている
というのだ。

 それこそ、米国よりもはるかに中国の脅威にさらされている日本のとるべき道であろう。
 防衛省はたったの21億円をレールガンに来年度予算で投じるよりも、その資金を、日本の民生技術や民生品をどのように軍事転用し、新たな作戦構想を生み出すかに投じる方がよほど賢明というものである。



東洋経済オンライン 2016年09月16日 伊藤 祐靖 :特殊戦指導者
http://toyokeizai.net/articles/-/136129

「シン・ゴジラ」の防衛大臣はプロ失格である
自衛隊特殊部隊創設者が感じたこと

『国のために死ねるか』(文春新書)は自衛隊の特殊部隊創設に携わった伊藤祐靖氏の波乱万丈な半生記であると同時に、戦闘論、防衛論、国家論でもある。
伊藤氏は人気の映画『シン・ゴジラ』をどのように見たのだろうか。

 庵野秀明総監督の映画『シン・ゴジラ』が、大ヒットを記録している。
 同監督がゴジラという謎の巨大生物を持ち出すことで描きたかったのは、日本の政府が意思を決定していくプロセスだったのだろう。
 映画の中では、総理大臣や大臣、官僚、補佐官が、未曾有の危機を解決すべく奮闘していた。

 『シン・ゴジラ』は、映画ファンや監督の庵野ファンのみならず、軍事評論家から元防衛大臣までが関心を寄せ、すでに大量の批評や考察がなされている。
 自衛隊の働きに関する論評も多い。
 私は元自衛官だが、戦闘艦艇から人間が乗る船舶を照準して砲弾を撃ったことはあっても、戦車から砲を撃ったこともないし、撃たせることについて考えたこともない。
 戦闘攻撃機に至っては、駐機しているものにさえ乗ったことがない。
 だから、触ったこともないものをどう使うべきだとか、無責任に語る気もその資格もない。

■違和感を禁じ得ない場面があった

 しかし、特殊部隊の作戦指揮や特殊戦の作戦立案に携わっていた者として、違和感を禁じ得ない場面もいくつかあったし、大いにありうると思いながらも、決してあってはいけないと感じたこともあった。
 今から、その決してあってはいけないと感じたことについて書く。
 なお、まだ映画を観ていない方にとっては「ネタバレ」になってしまうため、映画を観た後に次ページ以降を読んでいただきたい。

 総理大臣(演:大杉漣)は、発動を躊躇していたが、とうとう自衛隊を出動させた。
 警察の誘導により付近の住民は避難を完了したとの報告を受け、陸上自衛隊の対戦車ヘリに発砲を許可する。
 しかし、発砲寸前に2名の民間人を発見したため、攻撃を中断した。
 その後、再攻撃を命じることはなかった。

 結果的には、2名の保護を優先したことで、その後比較にならないほどの犠牲者を発生させてしまう。
 しかし、避難完了という報告の信憑性がなくなり、他にも民間人が多数残っている可能性が出てきたことと、その後、巨大生物が進化し、強力化していくことなんて予想できるはずもないので、攻撃の中断はやむを得なかったと思う。

■防衛大臣の許しがたい言動

 決してあってはいけないと感じたのは、攻撃を実行すべきだったとか、中断すべきだったということではなく、総理大臣が攻撃の中断を決断したときの防衛大臣(演:余貴美子)がとった行動である。
 あの時の防衛大臣の発言で
 「(対戦車ヘリからの攻撃を)始めますよ!」
はありえないし、民間人を発見したときの
 「撃ちますか?」
も許しがたい。
 有事、非常時、緊急時は、とにかくその場で決断しなければならないことが多い。
 それを組織として実施していても、指揮官は、あたかも自分一人で決断しているかのような孤立感の中にいる。
 だから、指揮官である総理大臣にかける言葉には、その孤立感から少しでも解放されるように細心の注意を払うべきだ。

 それは、特別な立場や強い権限を持っているからといって、特段精神的にタフというわけでもなければ、そのためのトレーニングを続けてきたわけでもないからである。
 ただの普通の人なのだ。
 いくら選ばれし総理大臣とはいえ、あまりにも厳しい環境下だったり、激しいストレス下に長く置いておくと、人として機能しなくなってしまう。
 だから、防衛大臣の「始めますよ!」も、語尾も上げて言い放つように言うのではなく、「始めます」と語尾を下げて、説くように言うべきだし、
 「撃ちますか?」などと判断を迫るような言い方ではなく、自分なりに判断をして「撃ちます」か「中断します」と言い、
 総理大臣がイエスかノーで答えられるようにするべきなのだ。

 一方、防衛省のトップとして総理大臣に決断を迫らなければならない時もある。住民の避難は完了したとの報告を受け、陸上自衛隊の対戦車ヘリに発砲を許可した直後、2名の民間人を発見した時のことである。
 あの時、総理大臣は、2名の民間人を発見し攻撃中断を命じた。
 しかし、民間人を発見しようがしまいが、巨大生物撃滅の必要性は何も変わってはいない。
 必要性があって、撃滅を決心し、命じたのだから絶対に撃滅させなければならない。
 2名の民間人を発見したことは、撃滅する必要性を変化させるものではなく、撃滅のために行う攻撃より優先すべきことが一時的に発生したにすぎない。

 だから、撃滅せよと命じられている自衛隊は、攻撃より優先すべき事項をなくそうとするし、それがなくなれば、攻撃するのである。
 では、総理大臣が攻撃より優先すべきと判断したものは何か? 

■攻撃より優先すべきと判断したものは?

 それがあいまいなのである。
 発見された2名の民間人の保護なのか、避難完了という報告がされた地域の再確認なのか、が判然としない。
 そこが明確になっていないので、再攻撃の条件も「民間人2名の避難完了」なのか「攻撃による犠牲者を絶対に出さないための確認の完了」なのか「多少の犠牲を覚悟し、時間で割り切った確認の完了」なのかが判らない。

 人間は、行動を起こそうと重い腰を上げたときに中断せざるを得ない事象が発生すると、心の中ではホッとして、一気に気が抜けてしまうものなのだ。
 だから、行動する必要性を強く認識し、実施することに情熱を傾けて続けないと、一旦中断し再開の機会を探るべきときに、止める理由やその方法を探ってしまう。
 また、再開するときというのは、気が抜けた状態を引きずっていることが多く、思わぬ失敗や事故を発生させやすい。

 オリンピック陸上、100メートルの決勝でスターターピストルが鳴る寸前は、選手は無論のこと、スタジアムの観客やテレビを見ている人でさえ神経を集中している。
 そのときに誰かがフライングを起こしてしまうと、当該選手は失格になるが、レースはすぐに再開される。
 しかし、もう好記録は期待できない。
 4年に1度しか行われないオリンピックの決勝で、選手がやる気を失っているわけがない。
 だが、好記録は出ない。
 それは、オリンピックの決勝に残ってくるような選手でさえ、さっきと同じレベルまで神経を集中することは、非常に困難であり、実質不可能だからである。

 だから、総理大臣が攻撃の中断を決心したとき防衛大臣は、自分自身は無論のこと、総理大臣が心の中で「ゴジラへの攻撃をしなくて済んだ! ふぅ~」だなんて気が抜けてしまわないかを、注意して見ていなければならなかったのだ。
 そして、総理大臣の気が抜けてしまって、攻撃再開に関する発想が浮かばなくなっている場合でも、それを迫らなければならない。

 だから、あの時に防衛大臣がしなければならなかったことは、総理大臣の判断基準が、
★.「自衛隊が国民に向けて発砲」することは「何がどうあろうと絶対にありえない」という平時モードなのか、
★.「自衛隊が国民に向けて発砲」することは「より多くの国民の生命を救うためであれば、ありえるかもしれない」という有事モードなのか
を確認することだったのである。

 それは、迷って困ってサイコロを振るように中断を決めたのか、しっかりとした思考過程を経て中断という結論に達したのかの違いでもあり、見ていれば誰でもわかる。
 そして、このタイミングで総理大臣が有事モードに変わっていないとしたら、防衛大臣がとるべき選択肢を示し、そのうちのどれを選ぶかを総理大臣に決めさせなければならない。
 2名の避難完了で再攻撃なのか、避難完了が完全に確認できるのを待つのか、確認作業を時間で割り切って再攻撃をさせるか、である。

 「総理、ご決断を」は、このときに使う台詞だ。

■戦闘集団トップのプロフェッショナリズムとは?

 映画の中では、ほんの1分程度のシーンだったと思う。
 しかし、私はここでの防衛大臣に「始めますよ!」と「撃ちますか?」のたった二言の発言からではあるが、総理大臣を補佐すべき閣僚としてのプロフェッショナリズムを感じなかったし、再攻撃に関する決断を総理大臣に迫らないことから、戦闘集団トップとしてのプロフェッショナリズムも感じることはなかった。

 組織が何かを決断し、行動を起こすときというのは、
 どちらを選択したとしても何かを失い、その失うものが非常に大切で大きなものであることが多い。
 最終決断する者、
 決断の補佐をする者、
 決断のための情報を集める者、
 それを整理する者、
それぞれの役目がそれぞれの役職にあり、それが正しく機能すれば、最適な判断がなされる。

 決断である以上、失うものがゼロということはあり得ないが、
 組織を正しく機能させて最適な決断をすることはできる。
 それが可能なのは、
 全員が自分は何をするために存在しているのかを正しく認識し、
 それを忘れず、
 実行し続けるからである。
 その姿勢をプロフェッショナリズムという。

 『シン・ゴジラ』の中でも、最高指揮官の統合幕僚長(演:國村隼)の発した
 「礼には及びません。仕事ですから」
という一言は、戦闘のプロとしての隊員の姿勢を感じさせた。

 しかし、実際はなかなかそういかない。
 あるべき職務の遂行を困難にしているのは、いつの間にか心のすき間に入り込み、へばりついてくる、自分が傷つかないことを最優先しようとする私心であり、その存在を隠そうとする邪心というものだ。

 この映画の本当の狙いは、人間の私心や邪心の抽出なのかもしれない。







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